異論のススメ
関西のある研究機関が、毎年2回、関西圏の高校生を集めたセミナーを主催している。講師は理系、文系の大学教師で、20人ほどの高校生たちと2泊3日の合宿を行い、講義をし、語り合ったりする。私も2回ほど講師を務めたが、高校生たちの意欲や能力やさらには自己表現力にはしばしば驚かされた。西田幾多郎の「善の研究」なども取り上げたが、高校生たちはこの難解な本をともかくも読んできて、何やかやと議論している。しかも、将来についての展望をかなり明確にもっている者も結構いる。日本の大学はつまらないから米英の大学へ行きたいなどという者もいる。学力の低下や若者の内向き志向が指摘される中、これはたいしたものだと思った。
しかし、そう思いつつも、少し複雑な気持ちにもなる。私自身のことをつい振り返ってしまうからだ。私は高校生の頃、とてもではないが、彼らのような強い意欲も能力も表現力ももっていなかった。こんなセミナーがあっても参加しただろうか、と思う。将来の明確な展望もなく、他人に対して自己を主張するほどの表現力も表現内容もなかった。ただあれこれ小説を読んだり、鬱々(うつうつ)と迷ったりしていただけであった。
そもそも文章を書くことは大嫌いだったし、現代文、古典、漢文といった国語教科はまったく好きにはなれなかった。こころの支えは、ロマン・ロランのジャン・クリストフや、ドストエフスキー「罪と罰」のラスコーリニコフや、マルタン・デュ・ガール「チボー家の人々」のジャックや小林秀雄の描くゴッホたちであった。えらく暗い青春前期だったと思う。ところが、似たような仲間がそれなりにいて、いつもボソボソ、グダグダとしゃべっていた。
人は何かを語るとき、どうしても自分の経験を参照する。だから、私の場合、昨今の高校における学習指導要領の改変、大学入試の改革等も、この私のような高校生がいるとして、その目線から論じてみたくなるのだが、ここで書いてみたいのは、国語教育改革についてだ。
しばしば論じられるのが、「現…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル